「自動車の場合、エンジンは寒冷地、たとえば北海道の氷点下20度のところでも、スイッチをいれると、たちまち数百度の高温になるなど、わずかな時問で温度が激変します。

また触媒は振動に弱いのですが、自動車は長距離を高速で走り、激しく振動します。

ひどい悪路を走る場合もあります。

そのうえ、当時のガソリンにはノッキング防止のために4エチル鉛が含まれていました。

触媒は鉛にふれると性能が劣化してしまうのです。

だから、触媒を自動車のような悪条件のそろったところで使うなどということは、従来のわれわれ化学屋の考えからすれば非常識極まりないものでした」

このありえない状況を覆してできた触媒は黒煙を上げていた中古トラックの排気がきれいなものになるほど優秀な触媒でした。

「日産自動車に入社して『排ガス対策のために触媒を研究開発せよ』といわれた時は、率直にいって『そんなバカな』と思ったのが実感でした。

というのは、化学工業における触媒については、専門家の間には当然の常識というか、一種の原則のようなものがあったからです。

触媒というのは本質的に環境に極めて敏感な物質です。

たとえばメタノールやアンモニアの合成に触媒を使う場合は、一定の温度を厳密に保ち、しかも原料ガスは十分に精製するなど、触媒の機嫌をそこねないように、ちょうどハレモノにさわるような気持で反応させなければなりません。

だから触媒は化学工場のような、固定した、しかも温度や湿度などの外的条件が非常に安定したところでないと使えない、というのが、触媒専門家にとっての初歩的な常識だったのです」

しかし、この常識を覆して触媒は完成します。

この触媒があったから今の中古車トラックが白煙を上げて走るようなことがないのです。

ほかの大部分の産業と同じように、自動車も戦後しばらくはドン底に落ちる。

終戦直後の昭和20年9月25日、連合軍総司令部(GHQ)の覚書で乗用車の製造は全面的に禁止され、トラックだけ月産1500台までが許可された。

このためトヨタ自動車、日産自動車などの大手メーカーは非常な苦境に立たされた。

2年後の22年6月になって、やっと1500㏄以下の小型の乗用車に限り、年間300台までの生産が許可される、という有様だった。

それにもかかわらず、22年2月1日には、早くも自動車メーカーの技術者による日本自動車技術会(初代会長、浅原源七氏)が設立されている。

『くるまと共に半世紀』(荒牧寅雄著)によれば、同技術会の設立趣意書には次のように述べられている(大要)。

「今日、自動車は公的には汽車、電車と同じく、私的にはガス、水道、電気、ラジオと同じように生活必需品の一つである。

この現状を考える時、自動車技術者の任務は明らかだ。

乏しい資材を十分活用して良い車をたくさん造り、今ある車の保全修理に全力を尽くすと共に、将来輸入されるであろう外国車の研究に、さらに飛躍的な新型式自動車の創案に全力をふるうべきである」

22年2月1日といえば、その前日にGHQの指令で二・一ゼネストが中止されたばかり。

当然中古トラックなどなく、世情が騒然としていたころだ。

自動車の増加に伴なって交通事故による死傷者が激増し、欠陥車問題も続出して自動車メーカーは信用を落した。

そのうえ、公害、環境問題が大きな社会問題としてクローズ・アップされ、さらに48年には第一次石油ショックが起ってガソリンの不足と価格の急騰から自動車は窮地に立った。

これらの一連の現象の結果、一時は「自動車は反社会的なもの」として厳しい批判の矢面に立たされた。

メーカーの必死の努力の結果、50年代に入ってこれらの問題はかなり改善された。

今は中古車トラックでもきちんと制限をクリアした物しか販売されていない。

しかし自動車の絶対数の激増は、また新しい問題を提起しつつある。

終戦直後の自動車業界の主な動きからその概略をたどってみよう。

「昭和の初めごろは、『自動車は外国車を輸入すればよい。国内で生産しても需要が少ないから、企業としては到底引き合わない』という風潮が一般に強かったのです。

これに対して私は、近く国内でも必ず需要がふえるから、国内メーカーによって大量生産をするべきだ、と考えていました。

しかし、国内には自動車工業を研究する人がいなかったので資料も乏しく、私の講義も内容は外国の雑誌や文献に頼るしかありませんでした」

「昭和4年に文部省の在外研究員に選ばれた時のことです。

研究テーマを『自動車工学』にしたところ、教室主任に『君は"カゴかき"になるのか。そんなテーマでは文部省が許可しないだろう』といわれました。

当時、自動車はせいぜいカゴの代用品というほどに軽く考えられていました。

中古トラックのようなものですらない時代です。

したがって自動車の運転手は"カゴかき"くらいにしか見られていなかったわけです。

教室主任が私のことを"カゴかき"といったのは、次のような事情です。

当時は自動車はほとんどが輸入で、国内にはメーカーはもちろん、修理工もいません。

したがって故障した場合の修理も運転手にまかされていました。

だから自動車工学の研究運転手"カゴかき"という発想になったのでしょう。

とにかく、自動車の研究ではとても外国へいかしてくれそうもありません。

仕方がないので研究テーマの『自動車工学』を『機械工学』に改めて、やっと文部省の許可をもらいました。

当時の自動車に対する一般の認識はそんな程度だったのです」

昭和の初期、自動車の技術開発を手がけた人の話を聞こう。

日産自動車の常務だった前田利一氏(88歳)は、日本における自動車の技術開発の草分けの一人である。

1917年(大正6年)に大阪高等工業(大阪大学工学部の前身)を卒業して同校の助教授になり、昭和の初期に日本で初めて自動車工学の講義を担当した。

学生を集めてモーター研究会(主に自動車の運転の研究)も作った。

昭和12年に日産自動車に入社、基礎的な研究を続ける。

前田氏は「昭和の初めごろは、自動車はまだ一般の人たちにはカゴの代用品くらいにしか見られなかった」と次のように語る。

今のように街中を中古車トラックが走るなんてだれも想像していない時代です。

「欧州では、大正3年に始まった第一次世界大戦、とくにフランスのベルダン要塞の攻防の時の後方輸送で、自動車が大いに威力を発揮しました。

日本では大正12年の関東大震災で鉄道交通が途絶えた際に、自動車の効果が初めて認められています。

しかし大正の末ごろまでは、まだ街を走る自動車は珍らしかった。

私は当時大阪にいましたが、大阪・梅田の駅前にフォード車のタクシーが2台ほどいて、雨降りの時などに利用したのを覚えています」

創業者のN社長が自慢するところの"優れた人材"によって培われてきたものです

その優れた人材は、当時の常務取締役を筆頭にした"七人の侍"ともいえる上級幹部、それを支える中堅幹部、そして第一線で働く従業員たちです

いずれも骨身を惜しまずよく働いています

だからこそ、第二次石油危機後の不況や円高不況をものともせずにニケタ成長を続けてこられたのです

その気働きの回転による"小回りの利く社風"は、中途半端ではない

そこに同社の魅力があります

Nトラック運送が高成長をとげている要因は、"小回りの利く社風"だけではありません

"現場の仕事に好奇心をもち、たえず、なにか改善する余地はないかと問題意識をもつこと"によって創り出された納品代行・検品代行、保管・流通加工、共同トラック中古車配送などの物流システムも同社の成長を促した大きい要因です

Nトラック運送(本社・東京)は、たえず自己改革をとげながら成長している企業です

平成二年の四月決算で目標年次より一年早く、計画していた目標売上げ額を達成しました

昭和56年に長期経営10カ年計画を策定以来、毎年2ケタ台の伸び率で収入増を図り、9年目にして計画目標の年商102億円を上回る104億6700万円をあげたのですから、お見事といえます

この成長をもたらした要因はなんなのでしょうか

トラック運送業はサービス業である

中古車トラック輸送サービスの基本は気働きにある

Nトラック運送三十年の歩みは、まさに気働きの回転によって刻まれた成長の歴史といえると、

昭和56年に創業者へのインタビューですが、その気働きは今も続いて回転しており、"小回りの利く社風"はいきいきと脈打っています

ここでいう"気働き"とは、骨身を惜しまず、荷主のために次の仕事がしやすいように配慮して働く

同時に自分たちのためにもよい仕事をするという意味です

それが、上越新幹線が開業し、新潟博覧会が開催され、更に58年夏から新潟・両津間に佐渡汽船最大のカーフェリーこさど丸(8000トン)が就航することになって、初めて「百万人観光客」という島民の永年の夢が実現しつつあるというわけだ。

それは、繰り返される佐渡発展の歴史の形でもある。

実際、この"国道350号"は、新潟・両津・佐和田・真野・小木を経て直江津にいたる佐渡交通の大動脈なのだ。

経済や文化も、金山で名高い相川を含めて、この道路沿いに発展してきたといってよい。

トラックもまた、この路線に沿って、それぞれの地に初登場の足跡を残している。

まず大正2年、両津にトラックが入った。

続いて小木町宿根木には同5年、相川町米郷には同7年、金井町には同14年、それぞれに中古トラックが初登場している。

佐渡発展の大動脈にそって今日、佐渡へ渡るフェリーには、新潟から入るルートと直江津から入るルートのふたつがある。

どちらも"国道350号"の異名をとる珍しい航路だ。

そのうち、昭和58年2月の佐渡汽船の新潟・両津航路の往復の予約状況をみると、フェリーとジェットフォイルをあわせて、3月が7千800人、4月が4万3千人、4月が6万9千人、7月が5万7千人に及んでいる。

1年前の同じ時期と比較してみると、3月で100%増、4月で50%増、5月で20%増、6月で10%増、7月が昨年並みである。

昭和58年になって佐渡の観光客は著しい増加の趨勢をみせているのだ。

これは、佐渡の人々にとって喜ばしいことであるらしい。

というのも、過去十数年、佐渡への観光客数は年間を通して70万人前後で停滞していたからだ。
観光客が増えることで、中古車トラックを使った輸送や、タクシー事業が儲かるからでしょうか。