2011年3月アーカイブ

ほかの大部分の産業と同じように、自動車も戦後しばらくはドン底に落ちる。

終戦直後の昭和20年9月25日、連合軍総司令部(GHQ)の覚書で乗用車の製造は全面的に禁止され、トラックだけ月産1500台までが許可された。

このためトヨタ自動車、日産自動車などの大手メーカーは非常な苦境に立たされた。

2年後の22年6月になって、やっと1500㏄以下の小型の乗用車に限り、年間300台までの生産が許可される、という有様だった。

それにもかかわらず、22年2月1日には、早くも自動車メーカーの技術者による日本自動車技術会(初代会長、浅原源七氏)が設立されている。

『くるまと共に半世紀』(荒牧寅雄著)によれば、同技術会の設立趣意書には次のように述べられている(大要)。

「今日、自動車は公的には汽車、電車と同じく、私的にはガス、水道、電気、ラジオと同じように生活必需品の一つである。

この現状を考える時、自動車技術者の任務は明らかだ。

乏しい資材を十分活用して良い車をたくさん造り、今ある車の保全修理に全力を尽くすと共に、将来輸入されるであろう外国車の研究に、さらに飛躍的な新型式自動車の創案に全力をふるうべきである」

22年2月1日といえば、その前日にGHQの指令で二・一ゼネストが中止されたばかり。

当然中古トラックなどなく、世情が騒然としていたころだ。

自動車の増加に伴なって交通事故による死傷者が激増し、欠陥車問題も続出して自動車メーカーは信用を落した。

そのうえ、公害、環境問題が大きな社会問題としてクローズ・アップされ、さらに48年には第一次石油ショックが起ってガソリンの不足と価格の急騰から自動車は窮地に立った。

これらの一連の現象の結果、一時は「自動車は反社会的なもの」として厳しい批判の矢面に立たされた。

メーカーの必死の努力の結果、50年代に入ってこれらの問題はかなり改善された。

今は中古車トラックでもきちんと制限をクリアした物しか販売されていない。

しかし自動車の絶対数の激増は、また新しい問題を提起しつつある。

終戦直後の自動車業界の主な動きからその概略をたどってみよう。