ほかの大部分の産業と同じように、自動車も戦後しばらくはドン底に落ちる。
終戦直後の昭和20年9月25日、連合軍総司令部(GHQ)の覚書で乗用車の製造は全面的に禁止され、トラックだけ月産1500台までが許可された。
このためトヨタ自動車、日産自動車などの大手メーカーは非常な苦境に立たされた。
2年後の22年6月になって、やっと1500㏄以下の小型の乗用車に限り、年間300台までの生産が許可される、という有様だった。
それにもかかわらず、22年2月1日には、早くも自動車メーカーの技術者による日本自動車技術会(初代会長、浅原源七氏)が設立されている。
『くるまと共に半世紀』(荒牧寅雄著)によれば、同技術会の設立趣意書には次のように述べられている(大要)。
「今日、自動車は公的には汽車、電車と同じく、私的にはガス、水道、電気、ラジオと同じように生活必需品の一つである。
この現状を考える時、自動車技術者の任務は明らかだ。
乏しい資材を十分活用して良い車をたくさん造り、今ある車の保全修理に全力を尽くすと共に、将来輸入されるであろう外国車の研究に、さらに飛躍的な新型式自動車の創案に全力をふるうべきである」
22年2月1日といえば、その前日にGHQの指令で二・一ゼネストが中止されたばかり。
当然中古トラックなどなく、世情が騒然としていたころだ。