2011年2月アーカイブ

「昭和の初めごろは、『自動車は外国車を輸入すればよい。国内で生産しても需要が少ないから、企業としては到底引き合わない』という風潮が一般に強かったのです。

これに対して私は、近く国内でも必ず需要がふえるから、国内メーカーによって大量生産をするべきだ、と考えていました。

しかし、国内には自動車工業を研究する人がいなかったので資料も乏しく、私の講義も内容は外国の雑誌や文献に頼るしかありませんでした」

「昭和4年に文部省の在外研究員に選ばれた時のことです。

研究テーマを『自動車工学』にしたところ、教室主任に『君は"カゴかき"になるのか。そんなテーマでは文部省が許可しないだろう』といわれました。

当時、自動車はせいぜいカゴの代用品というほどに軽く考えられていました。

中古トラックのようなものですらない時代です。

したがって自動車の運転手は"カゴかき"くらいにしか見られていなかったわけです。

教室主任が私のことを"カゴかき"といったのは、次のような事情です。

当時は自動車はほとんどが輸入で、国内にはメーカーはもちろん、修理工もいません。

したがって故障した場合の修理も運転手にまかされていました。

だから自動車工学の研究運転手"カゴかき"という発想になったのでしょう。

とにかく、自動車の研究ではとても外国へいかしてくれそうもありません。

仕方がないので研究テーマの『自動車工学』を『機械工学』に改めて、やっと文部省の許可をもらいました。

当時の自動車に対する一般の認識はそんな程度だったのです」

昭和の初期、自動車の技術開発を手がけた人の話を聞こう。

日産自動車の常務だった前田利一氏(88歳)は、日本における自動車の技術開発の草分けの一人である。

1917年(大正6年)に大阪高等工業(大阪大学工学部の前身)を卒業して同校の助教授になり、昭和の初期に日本で初めて自動車工学の講義を担当した。

学生を集めてモーター研究会(主に自動車の運転の研究)も作った。

昭和12年に日産自動車に入社、基礎的な研究を続ける。

前田氏は「昭和の初めごろは、自動車はまだ一般の人たちにはカゴの代用品くらいにしか見られなかった」と次のように語る。

今のように街中を中古車トラックが走るなんてだれも想像していない時代です。

「欧州では、大正3年に始まった第一次世界大戦、とくにフランスのベルダン要塞の攻防の時の後方輸送で、自動車が大いに威力を発揮しました。

日本では大正12年の関東大震災で鉄道交通が途絶えた際に、自動車の効果が初めて認められています。

しかし大正の末ごろまでは、まだ街を走る自動車は珍らしかった。

私は当時大阪にいましたが、大阪・梅田の駅前にフォード車のタクシーが2台ほどいて、雨降りの時などに利用したのを覚えています」